第二話・憎悪 −Ascending Past Is Sad Story.−



「ようこそリリアント王女、我が城へ」

 うやうやしく王女の手を取り接吻をしながらその男は言った。肩にかかる程の長さの黒髪、強い意志で輝いている黒曜石のような瞳。

 仕立てのよい黒のフロックコートをまとう二十歳ほどのこの男こそ、誰もが尊敬するオヴィディウス帝国の若き革命王。『血染めの地獄ビー・アビス』と呼ばれる先王の支配を終わらせた人物だ。

 一方のリリアント王女は茶色オールドローズの長い髪を編みこんでいて、瞳の色は紫。揃いの白レースの飾り襟と飾り袖に薔薇色のドレスを着ている。

 リリアント王女は柳眉を逆立てて、男の手を振り払い、そのまま頬を打つ。

 パチンっ、という音が王宮の貴賓室に響く。通常ならば、従者やメイドの声が飛びそうなものだが、人払いしてある室内には二人きり。

 頬を打たれたオヴィディウス帝王の微笑みは崩れることなく、ただそこにあった。

「リリアント・ベベル・グラエキア王女殿下。たいした王女サマだ。私が激昂しないとでも思っていたのか? 私の命令一つで故国は滅びるぞ」

「滅びるなら滅べばいい。あのような腐った国などいらぬ。そうは思もわんか? クロノス・アールナ・オヴィディウス」

 リリアントはそう言って笑った。

 リリアントはグラエキアの第三王女。オヴィディウス帝国には表向きは嫁ぐために―――つまりは『人質』としてやってきた。しかしその心に故国を憂れえる気持ちは欠片もない。

 国に将来を誓った相手がいた。公爵家の長男坊だが国王専属近衛隊を勤めるという異色の人物。その能力は非凡で、二十二という若さでいくつもの手柄を立てていて、国王の信頼も厚い。

 障害はないに等しかった。

 帝国の脅迫さえなければ。王女を嫁がせることを代償に、同盟を結び平和を約束するというもの。帝国に対抗できる軍事力を持たないグラエキアはその提案に従うしかなかった、というのは表向き。実際は喜んで飛び乗った。

 グラエキアの王女は三人。うち第一王女は既婚者、第二王女は他国に嫁ぐことが決まっていた。残るは第三王女。恋人がいることなど関係なしに、話は進んだ。

「仮にも故国だろう。何故……」

「グラエキアという国は腐敗しきっている。民を省みない政治、戦争、搾取。地位にしがみつく王族に、保身をはかる能なし貴族。『血染めの地獄ビー・アビス』と大差ない」

 諦念の表情を浮かべて王女は笑う。

「諦める前に貴女は何かしたというのか?」

「したさ。金でできることわな。だがそれ以外のことはできなかった。王女の戯言だと思って誰も耳も貸さない。皇太子でさえもな」

「命を賭けて革命でもすればよかったではないのか?」

 怒ったように言うクロノスをリリアントはにらみつけた。再び頬を打とうと伸ばされたリリアントの手はクロノスの頬を叩く前にその手に止められた。

「おまえの……おまえのせいた。おまえがあんな同盟なんか持ち出さなければ、あの国は変われて助かる命もあった。なのにっ……」

 そう叫ぶとうつむいた。そして唐突に笑い声をあげた。

 もうどうでもよかった。自分は生きる屍(マリオネット)なのだから。人形に意思も思考も感情もいらない。ただ王女という器が従順であれば、それでいいのだろう。

「早く滅ぼしてくれ」

 王族としての義務を捨てて、恋人が助かるためにそう願う。

 オヴィディウス帝国とグラエキアが戦争を始めれば、当然リリアントの恋人は戦場に出て、そして死ぬ。けれどオヴィディウス帝国が早期に圧勝を飾れば、基本的に後方の国王専属近衛兵は戦場に立たないかもしれない。

 将来避けられずグラエキアの勝つ見込みのない戦争の中で生き残ってもらうためには、それに望みを賭けるしかなかった。だから

「早く滅ぼしてくれ」

 リリアントは楽しそうに言う。クロノスはそれに答えることはなかった 。







 数ヶ月後の祓月。祓月にしてはやけに寒い日だった。その日、グラエキアがオヴィディウス帝国への侵攻を開始した。侵攻された前線の軍事都市の名前をとってのちに「カザーク戦争」と呼ばれる。

 奇襲攻撃であったため、緒戦は善戦した。しかしそれはわずかな間で、すぐに帝国が盛りかえした。国の規模、軍事力の差からしても無謀としか言えない。

 そしてわずかな望みも、ついえる。

「なんだと!? それは本当かっ?」

「……はい。みごとな最期だったと聞き及んでいます」

 侍女の言葉にリリアントは手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。覆う掌からは止めることのできない涙があふれた。

「聞くところによりますと……自ら前線に出ることを志願したと……」

「どうして……どうしてっ!」

 みごとな最期だと? ふざけるな。みごとな最期などいらない。会えなくても、ただ生きていてくれればよかったのに。それだけが望みだったのに。

 悲痛な叫びがリリアントの私室に響いた。

 夜になって落ち着いたリリアントは自室に人払いをかける。涙の跡はないものの、表情は暗く生気はない。それでいてどこか決意した目をしている。

 ベランダに続く窓を開け放ってベランダに出る。握り締めた短刀を胸にむかって振り下ろした。

「やめろっ!」

 突然入ってきたクロノスに腕を掴まれ、手から短刀をはたき落とされた。

「離してっ! どうして邪魔するんだっ!!」

「死んでほしくないからだ」

「……死ぬ自由も奪う気か」

 自然と顔に自嘲と侮蔑を孕んだ微笑みが浮かぶ。間接的とはいえ、一番大切な者を奪った男が生きろと言う。そんなのごめんだった。

「愛してる。誰よりも」

「愛、だと?」

 あははは、と笑いを漏らす。この期に及んでこの男は何を言うか。ふざけている。本当に。

「あなたは私など愛していない。あなたと私の間に愛など存在しない」

「これでも信じられないか?」

 気がついた時、クロノスの腕の中にいた。気持ち悪い。こんな男に、彼を殺した男に自分が触れられるなんて。リリアントは初めて会った時と同様にクロノスの頬を打った。

「信じられる者なんてもういない……あなたが殺したんだから」

「……そうだな」

「グラエキアに王族はもういらない。死ぬなと言うなら、私を解放して。こんな場所にはいたくない」

 クロノスは頷いた。その様子にあの『血染めの地獄ビー・アビス』を終らせた革命王の顔はない。単なるクロノス。不思議とそう感じた。

「他に望みはないか?」

「万が一、会ったとしても知らない振りをして。それから、私を探すな。あなたの顔など二度と見たくない」

「わかった。必ず守ろう」

 リリアントは体をひるがえして呟いた。

「さようなら、クロノス」

 リリアント・ベベル・グラエキアがクロノスと呼んだのはこの時が最初で最後だった。

 この日、グラエキアの第三王女リリアント・ベベル・グラエキアはハルデンベルクの王宮から姿を消した。













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