第十四話・紅蓮
アトラスは走っていた。目指すべき場所はあの研究所。だが、様子がおかしい。普段なら人通りが少ないはずのその場所から人々のざわめきが聞こえる。理由は空を見上げればわかる。あの研究所がある方向の空が赤く染まり、黒煙が漂っている。そう、火事だ。
市場を抜け、住宅街を抜け、ただひたすら走って走って研究所を目指す。ようやく見つけた手がかりだ。あの場所にはまだ自分の記憶の欠片があるのだ。失ったら、また自分と言うものを見失ってしまう。
嫌だった。再び自分を探すのが。
嫌だった。再び無知のまま戦うということが。
と思っても、結局何も変わっていない。
研究所の前に着いたとき、炎が轟々と音を立てて建物を包んでいた。呑み込もうとしていた。ぱりん、ぱりんと軽い音と主に窓ガラスが割れる。おそらく、火の勢いに勝てなくなったのだろう。そして、全てを灰へと還していく。
「行かなきゃ…………」
ぼそりと呟くと火が燃え盛る建物の中へと入ろうとする。しかし、その体は押し留められた。
「君、行ってはダメだ!! 死ぬ気か!!」
腕章には帝国の紋章が記されている。おそらく、軍人。火事の報告を聞いた軍が動き始めたのだ。もちろんここがあの研究所であることにも関わりがあるのだろう。
「離せ」
アトラスが命じた声と共に、アトラスの体を押し留めていた男の体が痙攣し始める。男はその場に倒れこんだ。アトラスはすがりつく男の手を振り払い、建物の中へと進む。アトラスの後ろでめきっ、めきっ、という音と共に男の悲鳴が響く。
そこでは確かに生きていたはずの男の肉片と大量の血が散っていた。そこには人間の形など、影も形も無かった。まるで、歪なオブジェだ。
「行かなきゃ……」
涙を流し呟きながら辺りをさまよう。その様は、狂気に満ちていた。
数日後。アトラスの姿はハルデンベルグにあった。その足取りは不確かで、頼りない。ただ、もうあの狂気の色は見られない。ある意味、それが唯一の救いとでも言えるだろうか。
でも、その格好は悲惨なものである。服に血は付着していないようだが、燃え盛る炎の中に、水を纏うことなく飛び込んだせいで、煤で黒くなり、燃えたせいで穴が開いている部分もある。服の汚れ具合に対してアトラスの肌は全く傷ついていなかったが。
「もう何もないの……」
そう呟きながら街中をさまよう。常人から見れば、狂人にも見えただろう。夢遊病患者でもいい。とにかく、常を逸脱していたのだ。いつもに比べてまだましの方と言えるが。
市場がある賑わう大通りを抜けて、住宅街へとアトラスは歩く。いや、足が自然にそちらへ向かう。まるでそちらに記憶の欠片が眠っているとでもいうかのように。
そうだったら、どんなにいいだろう。
「ここは…………」
風がアトラスの白銀の髪を揺らす。そこにある白系統の花で作られた小さな花束をも揺らす。そして、墓。そんなにお金はかけていないようだ。かといって古いわけでもなく、どちらかと言えば新しい。その墓はまだ白かったのだ。
アトラスは白くて長い、とても人など殺せないような指で墓に刻まれている文字を追う。
「アーノルド、ソフィア、リューイ…………ここに眠る」
一瞬、アトラスの瞳が光を失ったかのように見えた。だが、数秒後、その瞳に光は戻った。今までとは違う何か強い意思のようなものを宿して。
「父さん、母さん、お兄ちゃん。ごめん……忘れてた。しなければならない事があるのに」
ちらつく赤。呼び起こされる炎。その意味が、理由が、ようやく取り戻せたのだ。古い記憶だ。昔の、幸せだった頃の最後の記憶。そして、地獄のような日々の始まり。
それを全て無に還すために。
「復讐を」
両手に剣を。
心に鋼の決意を。
身に纏うのは死装束とも言うべき白い衣。
進む道は茨の道なり。
けれども、鋼の決意は揺らがず。
ただ復讐の道を辿るなり。
それを止められる者、
あらず。
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