第十三話・死の序曲



 その時、あたしの中から嫌な夢の残しと奇妙な引っ掛かりがすっかり消えていた。かえってその消滅が奇妙に思えたが、それすらも思い出すことはなかった。目覚めるあの時まで。
 二度の乗り換えを経て、学校の最寄り駅で降りたあたしは、交差点に差し掛かった。
 あたしの通う高校はこの交差点の向こうにある。だから駅からの歩道には、同じ高校の生徒たちが溢れている。遅刻になるかならないかのギリギリの時間であることも原因の一つだろう。そんな様子もいつものことだ。
 その日もきっと日常と変わることのない、くだらなくて退屈な事象の繰り返しだと思っていた。そしてそれに飽き飽きしながら文句を垂れるのだと思っていた。のに、覆される。

「あ、れ?」

 横断歩道を渡った向こう側に、あたしの学校の制服を着た男子生徒が立っているのが、激しい車の往来の隙間から見える。もうすぐホームルームの時間だ。そんな時間に学校の方から駅の方に行く生徒がいるのはおかしいなと思ってよく見てみると、それは昨日会った大石先輩だった。
 車の往来が停まり、歩行者信号が青に変わる。たちまち横断歩道が学校へ急ぐ高校生で溢れる。
けれど、あたしも大石先輩も動かなかった。いや、あたしはそれを見て、動けなかった。膝が、体が震えていた。
 周囲がつったっているあたしを迷惑そうに避けていくのを他人事のように感じた。
 ただ大石先輩の異常さに体が震えた。
 大石先輩はにたぁと笑っていた。壊れた笑み。目は充血を越えて赤く輝き、口角は限界まで上がっている。普通の人間ではない。
歩行者信号が点滅し始めて、青から赤に変わる。横断歩道を歩いていた人たちは慌てて渡り、再び車の往来がはじまる。
 往来する車の隙間から大石先輩が車道に飛び出したのが見える。そこにかなりの速度で直進してきた大型トラックが突っ込んだ。
 あたしの目はそれを捕えていた。けれど体は動かない。世界の時間が停まっているように、トラックがゆっくりと大石先輩に近づいた。
 歩道にいる人は誰一人として、今目の前で自殺が起きようとしているのに気づいていないようだ。

 異常だった。

 世界が灰色に染め上げられ

 誰もが無関心で

 一人の人生が終わる。

 普通じゃないこと。

 あたしはそれを求めていたのに

 違ったのかもしれない。

「先輩っ!」

 トラックの急ブレーキの音が響いて、世界の時が動き出す。その 時、すでに大石先輩の体が人形のように空を舞っていた。
 トラックにはね飛ばされた大石先輩は交差点の中央に不吉な音をたてて落ちる。
 往来していた車が停まり、悲鳴ガまじったざわめきがその場に鳴り出す。あたしの耳はそれらを全て意識の外に置いて、ただ道路の真ん中に倒れている大石先輩を見つめていた。
 あたしは何も気にせずに、"それ"に駆け寄った。悲惨な惨状に目をそらして逃げ出したくなる感情を抑制して、近寄る。
 大石先輩は鮮やかな赤い血の海の中に体を横たえていた。足や腕が骨折のせいで、ありえない方向に曲がっている。目は血の色と同じ真っ赤なまま。そして、唇にはあの"にたぁ"という笑みが張りついている。  自殺現場を見ている人々のざわめきも悲鳴も、テレビのブラウン管を通して聞いているかのように遠くに聞こえる。
 現場保存という言葉も忘れて、あたしは"それ"に手を伸ばす。鮮やかな赤い血の海に体を横たえる大石先輩は暖かそうで、触らて確かめずにはいられなかった。腕や足があらぬ方向に曲がっていたとしても、まだ生きているのだと信じたかった。
 ―――冷たい。
 ただの冷たさではない。触れたところから、熱という命の欠片が全てが失われていっているとしか思えないほどの冷たさだ。
 あたしの目からぼろぼろと涙がこぼれて止まらない。その涙に込められている意味は、悲しみか後悔か、それとも憎しみか。それさえもわからずに、ただ涙を流し続けた。
 遠くの世界で救急車のサイレンが鳴り響いたのが聞こえた。
 あたしは制服が真っ赤に染まるのを気にせず、"それ"の腕を持ち上げる。ずしりとした重さがあって、生きていない人だと実感させられた。  髪を撫でると、乾きかけた血が手のひらを染めた。
 今は物体になってしまったような彼に、昔は触れたいと思ってた。  それも全て千希の策略によって叶わなかったものだ。一度も言わずにちゃんと消化されないままどこかへ行ってしまった言葉―――

「ずっと……好きだったんですよ、先輩」

 そんなあたしのずっと後ろの方で、千希が楽しそうに口を歪めて笑っていた。










「貴京」

 千希は消毒液のにおいが漂う保健室の中に背を向けて、窓の外を見ている。まどの外には警察車両がいくつも見え、せわしない空気が流れている。
 あたしは当然外傷はなかったが、半分精神錯乱状態にあったためこうして保健室に押し込められた。その時同時にポディチェックもすまされている。
 千希がここにいるのも精神錯乱状態にあったように見えたとかそんなところだろう。お得意の演技で。高校に大石先輩と千希が恋人であったことを知っている人がそんなにいるとは思えないが、何か言及された時のことまで考えているのかもしれない。
 保健室の前には警察か見張りに立っている。しかし、現場に居合わせた生徒への事情聴取については学校側が警察を押さえているらしい。あの場には学校へ登校するはずの生徒がたくさんいたのだから。

「貴京、先輩は即死だったそうよ。家から遺書も見つかって聞いたわ」

 家の権力を利用して知ったのだろうか。千希は冷たい声でそう言った。まがりなりにも、三年程前までは千希の彼氏だったのだ。それをまるで何でもないことのように扱っている。昔はもっと優しくて泣く子だったはずなのに。
 違う。千希はあの時と何も変わってはいない。昔からずっとこうだった。偽り、演技し、だまし、相手を傷つけることを楽しむ人種。そして変わってしまったのはあたしの方。
「くっくっくっ…………あははははっ」

 こんな馬鹿なことに三年もいや、ずっと気付いていなかったなんて。わかっていたはずなのに、認めようとしていなかったなんて。あたしの唇から似つかわしくない笑いがもれる。

「貴京? ど、どうしたの!?」

 めずらしく、千希が慌てふためいている。声も少し裏返っていた。

「千希。あたしが馬鹿なことをしていて、さぞかし楽しかったよね? その上、先輩を利用して捨てたんでしょう? 殺したのもあんたでしょ?」

あたしの言葉に千希の顏が無表情になっていく。そして、千希は警官の制止を振り切って逃げるようにその場を走り去った。

「逃がさない」

呟いたあたしはおかしくなり始めていたのかもしれない。











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